ペットロス最中の月命日と初盆
7月14日に旅立った愛犬の初盆になにをすればいいんだろう?
まだまだ平常心の戻らないぼうっとした頭では、段取りよく物事の計画を立てることさえ難しかった。
初めての月命日は3匹のおかげで笑って過ごせたけれど、ひと月目の命日である8月14日は世間でいうお盆の真っ最中。きゅうりとなすびの乗り物はあの世から早くかえって来て、あの世へ遅くかえっててもらうためのものだと聞いたことがある。
四十九日を迎えていないから、トトちゃんの魂はまだこの世、この家にいるだろうし…どうしようかな、なにもしないわけもいかないだろうし…。
とりあえず本来であればきゅうりとなすびで作る「精霊馬」に見立てた雑貨のバイク2台を骨壺のそばに置いて、月命日と初盆は過ぎていった。
霊感なんてないけれど、不思議なことに夢を見る
わたしには霊感がない。幽霊なんてみたこともないし、見たくもない。ただただ怖い。怖がりだから肝試しもしたことがないし、お化け屋敷にも入ったことがない。
女性にしてはわりと合理的な考え方をすると何人もの人に言われたこともあるし、占いもとりたてて興味がない。人は信じたいものを信じ、見たいもの見るものである、と常日頃から思っている。
いわゆるオカルト・スピリチュアルと呼ばれるものを馬鹿にする気持ちは微塵もないけれど、地球上で現実を生きるのに精いっぱいであるせいか、違う次元の話だと思っている。
ことぶきは、そういう人
――だと周囲から思われていることもあって、大きな声では言えないし自分からほとんど言ったこともないのだけど、わたしは時々、夢を見る。
- 起きた瞬間に忘れぬけていく夢。
- 目覚める数分前に半分起きている状態で見る夢。
- 夢の中で「覚えておかなきゃいけない」と思っている夢。
- 何日経っても鮮明に覚えている夢。
1つめと2つめにかんしては、ただの意味のない「雑夢」。
3つめと4つめの夢をたまに見る。
亡くなった祖母が夢でしらせたこと
祖母が亡くなって2週間が過ぎた頃に不思議な夢を見た。新規開拓が急ピッチで進められているらしき土地の一角に無表情な祖母が立ち、ある一点を見つめている。
そこになにがあるんだろう? と近づいていくと、叔母が忙しなく動いていた。亡き祖母は自身の次女である娘をただじっと見つめている。
あまりにも印象的な夢だったので、叔母にLINEをいれて夢の話をして聞かせると…彼女は明らかに動揺し「おばあちゃん怒ってた?」と言ってきた。
「怒られるようなことをしたの?」と訊ねると、「してない。感謝されることならしてきたけど、怒られるようなことを私はしてない!」と語気を強めた。
身内のことだから詳しくは書けないのだけど、祖母が遺したものを独り占めしようと秘密裏に叔母は動いていたらしい。親類縁者から弁護士まで立てられた叔母は、むかしはとても美しく楽しい人だった。大好きな自慢の叔母だった――。
亡くなったペットが夢の中でしらせたこと
こんな風にわたしは時々、夢を見る。
初盆が明けた8月17日の朝、不思議な夢を見た。
部屋の真ん中に艶々した黒毛の大きな牛。その傍らに椅子に腰かけた祖母がいて、祖母の足元にはトトちゃんが座っていた。
彼らに背中を向けるようにして、朱色の着物を着たおかっぱ頭の日本人形の女の子がいて、わたしはその女の子と手を繋いでいた。
誰も言葉を発していなかったから、彼らがわたしに何を伝えようとしているのかは分からない。けれど、とても意味のある夢のような気がしてすぐにメモに残し、日記にも覚えている限りを記した。
夢の内容よりもなによりも、祖母とトトちゃんが一緒にいて、一緒に夢に出てきてくれたことがなによりも嬉しかった。
あの日…7月6日の朝…やっぱり祖母はトトを迎えにきていたんだな、トトちゃんはやっぱり祖母と『交信』していたんだな、あれは気のせいではなかったんだなと今さら確信を持てた気がして嬉しくもあった。
初めてのペットロスは「死」を身近にさせた
トトちゃんが旅立ち、永遠に続くと思えた絶望は治りの遅い傷のようにじくじくと依然としてわたしを苦しめた。
だけど、わたしの目は14歳になったばかりの父犬ハムと、秋に13歳になる双子のおばあちゃんチワワのブルーとぴーちゃんを向くようになった。
トトが生きていた頃なら間違いなく気にしなかった、老いからくる彼らの静けさや些細な変化のすべてを不吉にとらえ、そのたびに背筋が冷えて、胸が締めつけられた。
トトちゃんの次はハムなの…?
ブルーを連れてくつもりなの…?
ただ熟睡しているだけのハム君の生死を何度も確かめた。
ドライフードの入った容器が鳴らす乾いた音に飛んでこなくなったブルーに「食欲なくなったの? どうして? どうして? 病院に行こうか?!」といちいち肝を冷やした。
左目に小さな病気を何度も繰り返したぴーちゃんの目が、昨日より赤いような、昨日より涙が多いような気がしてエリザベスカラーをつけたり外したり。
常に頭の中に「死」が在るようになった。死を異常に怖がるようになった。誰も連れて行かないで、まだ嫌だ、今はまだ無理だ、“つづく”なんて耐えられない。
一日に何十回も、3匹が生きていることを確かめて、そのたび強張った胸を撫でおろすのは精神的によいわけがなかった。恥を忍んで正直に言えばこの時期、獣医さんからの「大丈夫ですよ」という言葉がほしくて何度も動物病院に彼らを連れて駆け込んだ。
元気ですよ、大丈夫ですよ
“この薬”がないと安心できないくらい、死は身近な存在になってわたしを苦しめた。疑いようもないほど生を感じるものに触れたい――強くそう思うようになっていた。